あれから・・・

最後の日記からすでに1ヶ月以上が過ぎた。

3月25日母が亡くなった。死亡診断書には、左乳ガンによる死亡。死亡に至るまでの年月は約27年と記されていた。
3月22日火曜日に実家へ向かった。母も父も相変わらずの様子だった。
翌23日水曜日、母の通院日。いつもと変わらず片道1時間のドライブをして病院へ向かった。地震の影響で薬がなかったり診察時間が変わったりと、いつもにもまして待たされた。普段なら自宅でずっと横になっている時間だから2時間以上の待ち時間は辛かったのだろう、珍しく長いすに横になって眠り始めた。ようやく診察という時も起きることができなくて私一人診察室に入った。主治医からは、血液検査の結果、血小板が3万台になっているので急変を覚悟するようにとのこと。地震の影響でまとまった量の薬が手に入りにくいため2週間分だけ処方される。一応2週間後に次の予約をしておきますが…と言われ、もう診察に来ることもないのかもしれないと思った。
その日の晩、BS日テレで台湾ドラマを観ている時、「耳元でキャーっと叫んだが、何かあったのか?」と血相を変えて母が起きてきた。数週間前にも同じようなことがあった。「ここでずっと中国のドラマ観てたよ。叫んだり泣いたりしてないから大丈夫。心配しすぎだよ。」となだめて寝かせた。このドラマの主題歌を聴くたびこのときの母の姿を思い出す。
24日木曜日、母の様子はいつもと変わらず。地震で被災された人達を気の毒だといい、自分は病気だけど元気に生きていられることがありがたいと言っていた。地震発生から続いているACの『こんにちは、さようなら、ぽぽぽぽ〜ん』というCMがお気に入り?ならしく、出てくるたびに笑っていた。
25日金曜日、朝9時頃、パジャマのまま居間に転がり込んできて苦しいと訴えた。その後トイレに行くもよくならず病院につれていくことにした。なんとなく、これが自宅での最後の姿かもしれないと思った。父には、しばらく病院に泊まることを考え自分用の薬をしっかり持つように、火の元の確認をしてほしいと頼んだ。救急車はかっこわるいからいやだというので、適当な服を着せ、行きつけの病院に電話し、父の車を運転して病院に向かった。母は苦しみながらも、リップクリームを塗る余裕があり、父が横で笑っていた。

続く…