大地震

(3.17記)9日に実家へ行き10日に母の病院へ。血小板がいよいよ厳しくなり、夜の電話で主治医から覚悟するよう言われる。痛みが出てきたのでオキシコンチンを処方される。気休めでいいからホルモン剤を使ってくれと頼み、ヒスロン2週目。食欲が出て本人はいたって元気。ただ、肺に水がたまってる影響か声がかすれて出ずらいみたい。6年目のつきあいとなる主治医は、笑顔を一切見せずとても話しづらい人なのだが、こうして最後の最後まで母を見捨てずしっかり話を聞いてくれいろんな薬を処方してくれる…こういう人こそ本当に患者のことを考えてくれるいい医者なんだなと心から思う。先生、ありがとうございます。
翌日、午後から父の車で外出。雪が降ってきたので列車で…とも思ったが、なぜか車で行きたかった。そして3時ちょっと前…。

高3の時にも日本海中部地震を経験したが、そのときよりもはるかに大きく長い揺れだった。すぐに車に乗り込み家に戻る。信号はすべて停電し大渋滞。横から入る車がぶつかって事故も発生している。父の車は古いクラウンで、冬タイヤはおそらく8年目くらい。真っ白に積もった雪のせいで滑る滑る。それでも頑張って泣きながら走る。家まであと300メートルというところで、地震の影響により線路の遮断機が下りたままの状態、再び引き返し、遮断機のないところを探す。家まで2時間半。停電で冷え切っていたが両親は無事だった。
それから約30時間水と電気が止まり、夜もダウンを着てマフラーと手袋をしたまま布団に入った。余震が怖かった。近所の人に水を分けてもらった。食料は、病気の父母のためにといろいろ常備しているためさほど困らなかった。ただ、退院から1ヶ月の父と、前日主治医に危険だと言われた母を抱え、寒さと不安で頭と心臓が震度10位の状態だった。

ダーリンは大丈夫なのか、ダーリンの実家はどうなのか、友達は? 心配だが電話が通じない。どうにもならず、ただ携帯ラジオを聴き、寒さに耐えるしかなかった。 12日の実家の状態。停電が続き洗い物がたくさん。
 いくらか暖かい居間で寝る。日中も冬の上着と帽子が必要なくらい寒い。(続く)